29 January 2018

今日は、グラミー賞について、私見(妄想)を交えてお話します。物語として、読んでいただけたら。

さて、先日のグラミー賞では、

Ed Sheeranの『Shape of You』が、ベストポップソロパフォーマンスに選ばれました。

この『Shape of You』

歌い出しが

The club isn't the best place to find a lover

クラブは恋人を見つけるのにベストな場所じゃない

 

なんと。イギリス人のEd Sheeranが「クラブにはもう愛がない」ということを歌っているのです。

この曲がグラミー賞をとったということが、なんともタイムリーであり、また、政治的でもあります。

映画『キングスマン』でも、「クラブやフェスが、いまや、イケすかない金持ちたちが、Instagramをアップしたり、ドラッグをやったりする、ダサい場所だ」ということと、「合法化(legalizing)とは何か」が大きなテーマになっていましたが、またしても、イギリスから生まれた、クラブを批判する曲が、世界的なムーブメントとなったのです。

イギリスは、クラブカルチャーを先導してきた国でしたが、そのイギリスから、こうした声が、どんどんあがっていることが、大変面白いと思います。

クラブカルチャーというのは、ディスコが末期を迎える中で誕生したカルチャーで、イギリスでは、セカンドサマーオブラブなどの大きなムーブメントもあり、国策にもなっていました。

そのクラブが、なぜ、今、批判の対象になっているのでしょうか。

大きな理由として、インターネットやSNSにより、クラブがコアなストリートカルチャーの現場ではなくなり、お金さえあれば誰でも参加できるような、単なる金稼ぎのための観光産業となってしまったことが挙げられます。

クラブというのは、そもそも、地域に密着したもので、DJとスタッフと客がみんなで協力してパーティをつくりあげるような、自治精神に基づいた場所でした。ところが、昨今は、どこからでも、インターネットで情報をゲットし、参加でき、どこでも同じEDMやミニマルテクノがかかっているような、ディズニーランドやファーストフード店のような場所になってしまいました。

私が、ちょっとこれはさすがにマズい状況だな、と思ったのは、2015年のこと。イビサのウシュアイアホテルのイベントで、明らかに何らかのドラッグを過剰に摂取している様子で、ひとりでピョンピョン飛び跳ねまくってる人がいたのですが、目があって、ベラベラと彼が話してきた内容によると、彼はアメリカ人で、普段はずっと家でデイトレードや株をしているとのことで、当たって、お金がいっぱい入ってきたから、アメリカからイビサにきて、今こうしている、ということでした。彼は、係員につまみ出されたのか、力尽きたのか、気づいたらいなくなっていました。

こういう状況だったので、いつ、死者が出てもおかしくない状態でした。実際に、ウシュアイアでは、その日のイベントで、何人かが、白目をむいて倒れて、救急隊に運ばれていきました。

2016年には、Mike Posnerによる『I took a pill in Ibiza』がイギリスで大流行。2015年より更に酷い状況となり、イビサのいくつかのクラブが閉鎖に追い込まれ、これ以上オープンエアのクラブを作ってはいけないという条例もイビサのサンアントニオにできました。この流れは、イギリスでも連動しており、イギリスでは、fabricでMDMAの過剰摂取による死者が出て、fabricが閉鎖する事態となりました。

そして、2017年、2018年と、クラブカルチャーは、どんどんダメになる一方。かつてクラブを愛していた人たちまでもが、クラブへのヘイトを口にするようになりました。Save Night Lifeと大きな声をあげる人々も、話の内容は、「これだけ巨大な産業なのだから」ということばかり。かつての、自治意識に溢れたクラブとは全く別物になってしまっていて、単なる金稼ぎ、ツーリズム、Instagramにクールな(笑)写真をあげるためのものに、成り下がってしまったことが、どんどん、明るみになっています。

そして、今回の、Ed Sheeranの『Shape of You』のグラミー賞受賞、『キングスマン』の世界的大ヒット。

Club Culture is Dead

そんな言葉が脳裏をよぎります。

でも、大丈夫。クラブカルチャーが終わっても、音楽や、パーティが終わるわけではありません。ディスコがイケてない場所になって、クラブカルチャーが出てきたように、もう、既に、新しい何かが、芽を出そうとしているようにも思います。

クラシック界における、クラブミュージックの演奏も、そのひとつでしょう。かつてのクラブラバーズたちは、Derrick MayとFrancesco Tristanoによる『Strings of Life』のオーケストラ演奏の会場のほうがずっと本物のクラブのようだ、と言っていたり、いなかったり。

イビサでも、プライベートなパーティや、伝統ある自然の中の会場での生演奏などが、盛り上がってきています。

By for now,

10 January 2018

過去の原稿より

トライブ意識

 彼との日々の中で、私は久しぶりに、トライブ意識を思い出しました。

 私には、やるべきことがありましたが、それをやっていくための人間関係の最小単位があると感じたのです。それは、核家族より大きく、移動を伴い、誰かが遠征したり戻ってきたりしながら続いていくもので、トライブと呼ぶのがちょうど良いように感じました。

 中学生の時にスキー場で、高校卒業後にナイトクラブで、つくりあげていったものと似た、目的とライフスタイルを共有する最小単位。スキー場や、ナイトクラブには、場所自体にゆるいトライブ意識があり、その中でさらに大きな目的意識を持つ人々が強いトライブ意識で繋がっていたのでした。

 年功序列、終身雇用の会社で、給与生活者として家族の構成員全員が生きていくのなら、核家族や一対一のパートナーシップでもなんとかやっていけますが、それ以外の生き方をするのであれば、核家族という単位は不安定で、小さすぎる。大きな目的意識を持つ人たちは、自然とトライブを形成し、助け合いながら、みんなで目標を達成していたのでした。

 結婚をやめ、トライブ意識の強い彼と過ごすうちに、私はキラキラと輝くトライブ感覚を久しぶりに取り戻しました。ノンモノガミー、ポリアモリーという恋愛のスタイルは、トライブに全く矛盾しないどころか、トライブを形成するためにも、トライブを維持するためにも、理にかなっているように思いました。(意識的か、意識的でないかに関わらず、トライブ意識が強い人は、ノンモノガミー、ポリアモリー的な哲学やライフスタイルを送っていました。)

 10代の頃、私は、ずっと大勢で生活したいと思っていました。20代の前半も同様です。そして、20代も後半になり、子育てや生活、仕事、恋愛、セックスについて、より深く考えるようになり、私は、10代の頃、20代前半の頃よりはっきりと、大勢で生活すべきだと思うようになりました。

 社会が急激に変化していました。私だけでなく、皆が、これまでの生き方で、あと50年以上、これまでのシステムに依存して生きていくことは危険だと肌で感じていたこともありました。高学歴の同級生はどんどん全国各地、世界のどこかへと会社の都合で散らばっていきました。過酷すぎる労働環境で体調を崩したり、転職を余儀なくされる、高学歴の同世代がたくさんいました。孤独、孤立、心の病という問題が、日本中でどんどん深刻になっていました。私は、私からまず、自分が良いと思うことを実行し、みんなの状況をなんとかしていかなければいけないと思いました。そして、「自分の力で、自分の好きなように、自分の人生を切り開いていける、そして、それは、私だけでなく、みんなができることなんだ。」と、直感的に思ったのでした。

 トライブ意識を大切にし、トライブを自ら形成、維持していこう。そのために、私はトライブのメンバーひとりひとりに、できることをしていこう。貢献していこう。それが私のやるべきこと全てとも繋がるし、私がやるべきことをやるためにも、トライブのメンバーひとりひとりがやるべきことをやるためにも、未来の人類のためにも、とても大切だ。そういう生き方がとても自然なものとして、しっくりきたのでした。そして、それは、私が、北海道の日高と札幌を行ったり来たりしていた幼い頃に憧れていた、日高の姿、地域のために、日本のために、人類の未来のために会社経営をしていた祖父の姿と重なるのでした。

 日高にはアイヌの文化がまだうっすらと残っており、私もアイヌの血をひいていると聞かされていました。祖父は、幼い私には、首長のように見えました。私は日高で親戚たちと遊ぶのが大好きで、大きな家族に守られていると思いながらのびのびと成長したのでした。親戚だけではなく、親戚のところに出入りしていた、会社の人、祖父の恋人のような人、お手伝いさんや運転手さん、親戚の友人のアーティストたちも、皆、私を可愛がってくれました。矢野顕子さんや、さよなら人類のたま、フリージャズのアーティストたち、ヒッピーのようなレゲエのような人たちも、日高の空気の中、親戚たちがつくる空気の中で、リラックスしていたのでした。祖父が亡くなった時には、政界の人々などがおよそ2000人参列し、私は、それらすべてが、私の大きな家族、トライブだと感じていたのでした。

 

7 January 2018

そう。イビサで、私は、ユダヤとレゲエの深い関係について、知ったのでした。パンクとユダヤが深い関わりがあったことは、DJ Marboが、マルコムマクラーレンと仕事仲間で、(彼はマルコムマクラーレンの服の日本で唯一の代理店でもありました)マルコムマクラーレンがユダヤ人だったことや、パンクの関係者にユダヤ人が多いことから、なんとなく、知っていました。そして、パンクが流行していた当時のイギリスでは、パンクとレゲエがセットで楽しまれていたことも、聞いて、知ってはいました。パンクでまず盛り上げて、クールダウンに、レゲエ、と。

ただ、レゲエについては。私はレゲエバンドも昔やっていて、バンドメンバーのひとりはジャマイカでプロデューサー賞もとったりしていたけど、ユダヤとレゲエが深く関わっているなんてことは、周りからも聞いたことがなかったし、本でも読んだこともありませんでした。レゲエは、ラスタファリという宗教だと思っていました。それが、旧約聖書によるものであることは知っていたけれど。

2016年、私は、イビサと深く関わっていくなかで、ユダヤ人たちが、レゲエをものすごく愛していることを知りました。そういえば、ボブマーリーも、ルーツはユダヤでした。60年代に、ドロップアウトしたーあの、ヒッピーと呼ばれるーユダヤ人たちがつくった、とある、伝説の会場に、ボブマーリーをはじめ、レゲエのアーティストがよく呼ばれているのでした。そこには、イビサの他のクラブや、世界の有名クラブと違って、「きちんと踊れる人たち」が、まだ、沢山いました。そのダンスを見て、私は、めまいがしました。はっきりと、(日本は)敗北した、と思いました。これはどうしようもない、これはかなわない、と。ユダヤ人たちは、世界中の人々が、ダンスが出来なくなっていく中で、ダンスというものを、しっかり、受け継いでいたのでした。振り付けではなく、心や気で踊る、本当のダンス。皆で踊ってコミュニケーションすること、そういう場所を維持すること、生々しい音楽を奏で続けること、を、彼らは、きちんと、続けていたのでした。その会場には、まだ小学生くらいの子どもも、10代の前半くらいの子も、大人に連れられてきていて、大人たちの真似をして踊ったり、輪に入れられてみんなで踊ったり、していたのでした。その光景は、まるで、昔の、私のよく知っている、北海道のようでした。帰りに流星群が降り注いできたのですが、私は、上を見上げる気にもならず、下を向いて、自分が日本人であることについて、自分がアイヌであることについて、考えていました。

6 January 2018

2016年のイビサは、激しい変化の中にありました。観光客の数は、過去最高を記録していました。イビサタウンでは、下水の処理が追いつかず、糞尿がそのまま海に流れてしまう、ということも問題になっていました。

ナイトクラブ、アムネシアには、ある朝、突然、ヘリコプターで、スペイン警察と税務署がやってきました。脱税とドラッグの容疑でした。ナイトクラブ、スペースは閉店しました。

サンアントニオでは、新しいビーチクラブやオープンエアのクラブ付きホテルをこれ以上作れないようにする条例が出来ました。私には、それは妥当に思われました。というのも、イビサがラスベガス化している、ということは、音楽関係者たちにも、問題視されていたから。もちろん、地元住民が、迷惑していたこともあります。イビサの美しい自然環境と長い時間をかけて醸成された文化とは無関係の、目先の金儲けのことしか考えられてない低レベルな音楽施設や、馬鹿騒ぎしたいだけのツーリストたちで、サンアントニオは溢れかえっていました。長期的に見て、イビサの人々は、良い決断をしたと、私はそう思いました。

5 January 2018

2016年のヨーロッパについては、書かなければ、書かなければ、と思いながらも、ずっと書けずにいました。今でもそれについて書くのは気がひけます。というのも、日本で拡散されている情報と、私が見てきたものが、あまりにも違い過ぎたからです。私は、2016年冬にヨーロッパから日本に帰ってきて、自分が統合失調症になってしまったのではないかと思いました。そのくらい、日本では、ヨーロッパの現状が曲がって伝えられていました。アメリカについての情報も同様でした。私は、日本の人たちと認識している現状が違いすぎて、コミュニケーションがとれずに、とても苦しい思いをしていました。

2016年、まず、春に、"I took a pill in Ibiza" がイギリスで大流行しました。5週間連続で1位。何かが起こってる。民意なのか、コントロールされた情報なのか、それは分かりませんでしたが、何かが起こっている、ということは分かりました。私はその時イビサにいました。

それから、イギリスのEU離脱が国民投票により決定しました。私はその時もイビサにいて、イビサに住むイギリス人やユダヤ人やカタルーニャ人たちと共にいました。彼らは、少しパニックを起こしていましたが、あまり深刻ではありませんでした。イビサに住むイギリス人たちは、「EUからイギリスが抜けても、我々はイビサにこのまま住み続けられるだろう、少し手続きが必要になるけど、」とゆったり構えていましたし、カタルーニャ人は、「次は我々だ。まずはカタルーニャ独立だ。」と意気込んでいました。どちらかというと、イビサに住む人々は、EUの問題点ーそれが中央集権的であること、特にドイツによる中央集権であることーを強く認識していたので、イギリスのEU離脱は、祝祭的に受け入れられていました。